佐井寺

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 昭和33年千里ニュータウンの建設が決まり、また昭和45年大阪万博開催以降この地は急速に開発され、区画整理事業等とミニ開発で、平凡な里山は歴史の調査もほどほどに表土を削られ、谷は埋められ今は、かっての面影はほとんど残っていません。

ニュータウン開発から50年、ところどころに残る公園の雑木林や竹藪にその面影がかいま見られます。

 

古い歴史のある村でしたが、開発される前までは春には桃の花が咲き、青田が広がり、秋には下記の実が赤く色づくのどかな田園風景がありました。

只、水利体系(川がない丘陵地の為)が悪く「佐井寺は月夜でも焼ける(稲作が水不足で枯れる)」といわれ位でした。その為に灌漑用水確保の「ため池」が多く掘られていました。竹林、松林、雑木林が多くありました。

 

現在の千里山はそのころ桃の栽培が多く春の花見の頃は佐井寺以外の近郷から

花見の客が多く来たという。

大坂から「鬼門」に当たるというので、それまでひかえていた人々がより良い住宅環境を求めこの一画に住宅経営のクワを入れさせた。

大正九年、大阪住宅経営株式会社の手によって住宅が開発され、北大阪鉄道(阪急電車)が「千里山」まで開通しました。

 

 

この地域の事柄を皆様の協力を得て整理しながら記載して参ります。

資料は、吹田市立博物館、吹田市刊行書類他、地域の皆様による伝承を記載しています。